2018年高校生沖縄特派員新聞
2/4

館長の佐喜眞道夫さんから「沖縄戦の図」の解説を受けた衝撃の﹁沖縄戦の図﹂絵が生きている人の心が失われる住民にのしかかる負担伝える﹁ひめゆり﹂その想い風化させない3人の目が記す﹁記憶﹂次代へ﹁歴史の証人﹂かつての悲惨な記憶をたどる平和のために語り継ぐ普天間飛行場【出崎綾乃】若い世代に基地問題をどのように発信していくのか。―水域、空域を教えてほしい。―無人島に基地を移せば解決するのではないか。 【清水真】❶❷❸❹❺❻❼●佐喜眞美術館佐喜眞美術館は、館長である佐喜眞道夫さんが1994年に開館。基地に飛び出すような形で建設されている。それは、 米軍普天間飛行場から一部土地を返還させて建設したからである。屋上への階段は6月23日の慰霊の日に合わせて6段と23段に分けられており、そ●ひめゆりの塔・資料館私たちはひめゆり平和祈念資料館で説明員として働いている尾鍋拓美さんからお話を伺った。尾鍋さんは三重県出身で、琉球大学大学院に進学された。大学で沖縄戦につ いて学んだことを活かしたいと思ったことが今の仕事に繋がった。尾鍋さんは16歳でひめゆり学徒隊として動員された宮城喜久子さんの戦争体験を語ってくれた。喜久子さんはまず沖縄陸軍病院に動員され、2カ月間看護活動をした後、伊原第一外科壕へ行った。ひめゆり学徒隊の方が使用されていた日用品、体験者の証言ビデオなどを見学することができた。驚いたのは、ひめゆり学徒は戦場にも鏡や筆箱、下敷きまでも持って行っ沖縄県庁を訪れたのは8月2日午後。6日後の8日に翁長雄志知事が亡くなるとは思いもよらなかった。知事公室の基地対策課調査班主査の山口直也さんが沖縄県の抱える基地問題を説明、質疑応答もあった。山口さんは「沖縄県は日米安全保障体制 の必要性、重要性を認識している」としたうえで、―18歳選挙権に伴い、「国土面積が0・6%の沖縄に日本全体の米軍専用施設の7割が集中、過重 こからは基地が見えオスプレイが並び、たくさんの米軍機が飛んでいた。その大きな音に驚いた。美術館で最も衝撃的だった「沖縄戦の図」。これは画家の丸木位里さん・俊さんから託され、常設展示されている。体験者の証言を聞き、モデルになってもらい、1984年に描かれた。4×8・5㍍の大きな絵は壁一面を覆っており、とても圧倒された。絵の中の人物のほとんどは五体満足に描かれておらず、極限になると記憶が無く なるということで目が入っていなかった。しかまさに「絵が生きている」。佐喜眞美術館に常設 された4×8・5㍍の「沖縄戦の図」を観た時の印象だ。しかし、この印象は芸術的、つまり美しいものという観点などでなく、心理的あるいは本能的に感じた印象である。そして、この絵を描いた人物について知りたくなった私は、丸木位里さん・俊さんが「沖縄戦の図」を描くまでの経緯や夫妻の体験した現実を調し中央にある3人の子どもには目が入っており、今の私たちに真実を見て記憶を残してほしいという思いで描かれたのかもしれない。隣にある米軍普天間飛行場の騒音について質問した時に館長は「基地はべた。夫の位里さんは日本画家、妻の俊さんは洋画家 「この場所で次の世代であり、夫妻の合作である「原爆の図」に代表されように戦争の情景を描 く事で著名である。位里さんの故郷は広島県で、1945年8月6日の原爆で直接被爆したわけではないが、俊さんとともに凄惨なヒロシマの現状を目の当たりにし、後世に戦争の悲惨さを語り継いでいくために、「原爆の昔のことではなく現在につながる今の問題であり、それを伝える効果音としての役割はある」と話された。思っていた返答とは全く違っていて、音にもいろいろな捉え方があるのだなと、とても驚いた。ここでは、絵を見て知り、感じるだけでなく音を聞いて感じ、考えることが出来る。ここへ来た私たちが、戦争や基地問題を過去のものとせず、考えていくことが必要なことなのだと強く思った。図」「沖縄戦の図」などの作品制作に着手した。 「沖縄戦の図」を展示している佐喜眞美術館の館長、佐喜眞道夫さんは次のように語った。に語り継いで行く事が私の使命です」私たちはこの言葉を重 「鬼畜米兵」「撃ちてしく受け止めていく事がなにより大切だと感じた。そして、この絵画はしゃべらないが「生き証人」として私たちに最も大事な事を伝えているのだと再認識するべきであると私は考える。【大山太陽】止まん」「一億玉砕」などの標語の元、国内唯一の地上戦へ駆り出された戦時の沖縄県民たち。そのような県民や軍の病院で活動した女生徒たちの軌跡をたどるため、私たちはひめゆり平和祈念資料館を訪れた。資料館では、●沖縄県庁その3週間後に解散命令が出された。どこに逃げていいかも分からず、みんな「死ぬときは即死が いいね」と言っていたそうだ。6月20日の夜、荒崎海岸にたどり着いた。今までずっと戦争教育を受けて来て、弱音を吐いたことはなかったが、一緒に逃げて来た仲間と「お母さんに会いたい」と初めて本音を言い合い、唱歌「ふるさと」を歌った。次の日にみんな亡くなった。その後米軍が攻めて来て、手榴弾のピンを抜こうとたということだ。「学校の授業での訓練の延長線上だと思っていた」そうだ。だが、実際は違った、と。「戦争は人の心を失わせた」「知らないことは恐ろしいことだ」――そのよな負担になっている」と強調。米軍基地による事件・事故、騒音・環境問題に悩まされている実情を明らかにした。また、米軍基地と県経済との関係について「県民総所得に占める基地関連収入は5%程度。この5%が高いか、低いかは評価が分かれるが、事実として知ってもらいたい」と述べた。主な質疑応答は以下の通り。思ったが抜くことができず、先にピンを抜いた仲間は肉片になっていた。捕虜になると恐ろしいことをされて殺されると教えられて来たが、米兵は親切にしてくれた。喜久子さんが私たちに伝えたい教訓は真実を知らないことは一番怖いということだ。正しい情報を知っていれば命を落とさずに済んだひめゆりの生徒もいたはずだ。思い出すのもつらい戦争の記憶を私たちに語ってくれるのは仲間の死を無駄にしないためだと教えてくれた。二度と戦争が起きないように受け取った平和のバトンを後世に伝えていきたい。【吉川真央】うな事を語っておられた。私たちは平和な世の中に生まれた。だが、戦争については積極的に学んでいかなければならない。私は資料館を見学してそう思った。  【杉山茜音】◆私自身戦争を知らない世代。全国の自治体や公立図書館にパンフレットを配布して、若い人に話題にしてもらいたい。SNSなどはこれからの課題で、正しい情報を発信したい。◆水域、空域は目に見えない負担として存在している。◆米兵やその家族の生活、日常生活が出来る所になる。基地だけでは済まない。     「沖縄戦の図」が訴える戦争の残酷さを感じた尾鍋拓美さんの説明に耳を傾けた=ひめゆり平和祈念資料館で1日目佐喜眞美術館嘉数台地(普天間飛行場)2日目ひめゆりの塔・資料館沖縄県庁国際通り(牧志公設市場等)3日目糸数アブチラガマ対馬丸記念館2018年10月発行   2   

元のページ  ../index.html#2

このブックを見る