2018年高校生沖縄特派員新聞
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思いをはせた=糸数アブチラガマの慰霊碑で糸数アブチラガマで亡くなった多くの人たちに糸数アブチラガマで戦争の残酷さをガマでガイドを務める當山菊子さんが案内してくれた義母が避難していた糸数アブチラ対馬記念館では枝川健治さんからお話をうかがった暗闇の中に太陽のわずかな光伏せられた疎開船の悲劇1800の命ガマが教える沖縄戦戦場だった海の上で沖縄の過去・現在・未来感じた高校生特派員【中山ひなた】【杉山茜音】❺❼❹ 【田中美羽】●糸数アブチラガマ私たちは全長270㍍   ❷❶❻❸3     の自然洞窟、糸数アブチラガマを見学した。このガマは沖縄戦で住民の避難所、日本軍の陣地、陸 軍病院として利用された。當山菊子さんが案内して●対馬丸記念館3日目、対馬丸記念館に行った。対馬丸記念館の枝川健治さんの説明を受けた。対馬丸は太平洋戦争中、沖縄に危険が迫っていると判断した政府がお年寄りや女性、子どもを疎開させた船だ。沖縄ではアメリカ軍上陸の備えとして、多くの日本兵が沖縄へやってきて、小学校などの校舎は兵隊の場所へと変わっていった。また、食糧不足を避けるため、子どもたちは疎開させられた。1944年8月21日、対馬丸を含めて疎開した者たちを乗せた船は3隻、護衛船2隻が那覇港を出港した。もともと貨くれた。當山さんは義理のお母さんがこのガマに避難し、凄惨な光景を目にしたという。ガマのいちばん奥、そこは最初から命が助からないと判断された人々、脳症患者、破傷風患者が 閉じこめられた場所だ。当時は立ち入り禁止区域とされて、水も飲ませてもらえず、最後には青酸カリ入りの飲み物で亡くなった兵士がたくさんいた。その場所で懐中電灯を消し、暗闇の中、73年前に起こったことを全身で受け止めようとした。天井にいくつかある空気孔から入ってくるかすかな光のもとで麻酔なしの手術が行われたと聞いた。とても衝撃的だった。出口付近で73年経っても消えることのない火炎噴アブチラガマの中はとにかく暗く滑りやすかった。懐中電灯があったからこそ前が見えるが、沖縄戦の当時はそのような ものもなく、少しの太陽の光のみで戦火をさけて射の跡や爆風で天井に刺さったままの屋根を見て、戦争によって傷つけられた心のようだと思った。多くの尊い命を奪った戦争。体験した人が私たちの想像を絶する苦しみとともに語ってくれた事実を決して忘れてはならないと思った。【江口実里】生活していたと考えると、小さい子どもはもちろん大人でさえも恐ろしかったと思う。當山菊子さんの案内で糸数アブチラガマの中を歩いた。当時の遺物やカマドが残っており、自分の目で見た時、この場にいたのだなということをとても感じることができた。特に衝撃的だったのは、脳症患者や破傷風患者が運ばれた病室である。そこはいちばん奥の部屋で重症患者が運ばれたところである。光もなく恐 怖と絶望にかられたと思う。最後には青酸カリを渡され置き去りにされたという。考えるだけで恐ろしかった。他の負傷兵も水を飲むこともなく亡くなってしまった人もいる。ひめゆり学徒隊はわずかな人数で600人の世話をしなければならなかった。蛆(ウジ)を素手でとったり死体を埋めたり、もう何も感じなくなっていったという。生き残った人は自分が死ぬまで戦争は終わらないという。だが、それを伝えることで生きる力へ変えていったともいう。   物船で老朽化していた対馬丸は他の4隻よりも進むのが遅く、沖縄周辺の海に待機していたアメリカ軍の潜水艦ボーフィン号の攻撃の的となった。ずか10分足らずで沈没し、多くの犠牲者をだし た。これが対馬丸事件の沖縄に米兵が上陸してくる前に本州へ疎開する人たちをのせた船は総数187。その中で沈められた船の一つ、対馬丸について学ぼうと、対馬丸記念館を見学した。対馬丸は、マリアナ沖海戦敗北を受けて、沖縄から長崎へ疎開する人たちを乗せていく船だった。翌22日、魚雷が命中。わ概要である。しかし、この事件で無事生き残った者には対馬 丸事件の事を他の人に言ってはならないという箝口令(かんこうれい)が出された。公になると誰も疎開しなくなると考えたためである。この事件のことが知られるようになったのは戦後しばらく経ってからであった。生存者には生き残ってしまったという罪の意識に男子児童を中心に本州または台湾へ疎開させた。1944年8月21日に、対馬丸は他の2隻の疎開船と2隻の護衛船とともに那覇港を出発した。事件はその翌日に起こった。22日午後10時12分に魚雷が命中し、午後丸には約800人の児童よる新たな苦しみが生まれた。対馬丸記念館では事件の説明や生存者による証言、犠牲者の写真などがあり、生々しい痛みを実感した。私より小さい子が暗闇の中、恐怖の中で亡くなっていったことを想像するととても心が痛んだ。私は平和で恵まれた時代に生きていることに改めて感謝した。を含む1800人近くが乗船していた。が、最終的に児童は59人しか助からなかったらしい。対馬丸事件の生存者・死亡者ともに年々増加しているそうだ。これは、毎年届ける方がいるからだ。生存者の中には今でも箝口令をおそれている方もいるらしい。このような悲惨な事件を繰り返してはいけない。私はそう思った。対馬丸事件で犠牲になった人たちの写真が展示されていた2018年10月発行対馬丸の模型10時23分には沈没。対馬73年消えぬ戦争の跡

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