写真提供 第五福竜丸平和協会第五福竜丸の大漁旗写真提供 第五福竜丸平和協会福竜丸を残そう、歴史を後世に残そうと多くの人が立ち上がり、木造船の現物資料として、現在まで残せていることを誇りに思っています。また、東京都の施設として東京のど真ん中に作れたことも非常に大きく、修学旅行生や外国の方など、年間約10万人の方に来館いただいています。4 アメリカは、1954年3月1日から5月14日まで計6回の水爆実験を行い、太平洋の海と大気を汚しました。それと同時に、5月半ばごろから日本各地に強い放射能を含んだ雨が測定されました。日本各地の大学や研究所の調査・分析から、人工の放射性物質が含まれていることがわかり、それが気流に乗ってビキニ環礁から来ていることを解明しました。当初は、太平洋側で強く測定されましたが、秋以降はソ連がシベリア方面で行った核実験の影響で日本海側でも測定されるようになりました(※4)。 飲み水は安全か、野菜、米は大丈夫かなど、市民の間に不安が広がりました。(※4)1954年5月17日 東京32,000カウント 9月22日 山形128,000カウントなど 第五福竜丸の被災後、アメリカは船体から放射能を除去し海に沈めるように指示しました。しかし、日本の科学者たちは重要な資料になるとして保存を主張し、文部省(現在の文部科学省)が買い取りました。その後、安全を確認したうえで改造され、水産大学校の練習船「はやぶさ丸」となりました。はやぶさ丸は学生の航海訓練に使われたのちに1967年に廃船となり、東京の夢の島(現在の展示館の場所)に棄てられました。これを知った市民が募金や署名活動など保存に向けて動き出し、科学者や当時の都知事なども加わり、全国的な保存運動が広がりました。 1973年、船を保存・管理するために公益財団法人 第五福竜丸平和協会が設立、財団から東京都に船が寄贈され、1976年に都立第五福竜丸展示館がオープンしました。 私たちは、福竜丸の被ばくの事実をきちんと後世に伝えることを大切にしています。実際に来られてそれを受け止めてくださった方々が、自分はどうしていくのかを考えるきっかけになればと思っています。事実を伝えるだけで答えは求めません。いろんな考えがありますからね。訪れた人がここで見聞きしたことを持ち帰って、もっと勉強してほしい、もっと知ってほしいと思い、日々活動をしています。第五福竜丸展示館の誕生第五福竜丸展示館の誕生後世へ伝えるために放射能雨放射能雨
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