中学校生らを悼む「一中健児之塔」を取材する特派員たち鉄血勤皇隊などに配属され犠牲になった旧沖縄県立第一1945年3月から3カ月あまりの沖縄戦で、222人が、旧日本軍に動員され、小高い丘に掘られた陸軍病院壕で看護 補助にあたったひめゆり学徒隊。彼女たちがどれほど過酷な日々を送ったか追体験するため、初日見学できる南風原文化センターを訪れた。まず彼女たちを苦しめたのは壕内の異臭だった。汗や尿、消毒、便といっの16日、陸軍病院壕跡がた臭いが混じり合い、ひどい臭いが充満していたという。その臭いを再現したも 2 のを嗅がせてもらったが、思わず顔をしかめてしまった。加えて壕内には患者たちのうなり声が響き渡り、学徒隊への八つ当たりの罵声もあったと いう。そのような環境で過ごす日々は、彼女たちの精神を徐々に削っていったに違いない。そして彼女たちにとって最も危険だった仕事「飯あげ」について詳しく大城逸子さんにお話を伺った。丘の麓の炊事場から約400㍍離れた病院壕まで、醤油樽に入ったご飯を担いで届ける作業だった。「飯あげ」の道は急傾斜の獣道で、さらに爆弾も降ってきた。担ぐ飯は重く、途中、伏せたり、 転んだりしながらの、まさに死と隣り合わせの状況だったという。ゆり平和祈念資料館で、説明員の仲田晃子さんからひめゆり学徒隊であった宮良ルリさんのお話を伺った。宮良ルリさんは沖縄師 範学校女子部本科1年た。陸軍壕での生活が88日目となった45年6月18日の夜、解散命令が出さ れ女学生は壕を出ることになった。その直前には米軍が投げ込んだガス弾で、学友の多くが即死してしまったという。その話を聞いた後、私はある部屋に向かった。その部屋には沖縄戦で亡翌17日、私たちはひめ(18歳)の時に動員されくなった227人の顔写真と名前が掲げられ、その下にはどんな人だったかが書かれていた。真面目でクラスの委員長を務めていた人。活発で人気者だった人。お調子者でよくしかられていた人……。1人ずつ見ていくと、本当に私の学校の友達と何も変わらない。「この人たちも私と同じように過ごしていたんだ、戦争が始まるまでは」と思った。その上で宮良ルリさんの体験談についてもう一度よく考えてみると、自分の友達が真横で倒れている。その死体にはウジがわいていて、腕や頭が潰れている。そのような状況の恐ろしさがどれほどのものだったか、わかったような気がした。その後訪れた荒崎海岸には、「ひめゆり学徒散華の跡」の碑があり、少女たちの氏名が刻まれていた。戦争の歴史、戦争の恐ろしさを知るだけでは足りない。もうこれ以上戦争による犠牲を出さないために、今を生きる全て の人に自分と、自分の身近な人に置き換えて戦争について考えてみてほしい。 【石井綾美】沖縄での最初の取材先が、対馬丸記念館だった。800人近い子どもを含む、1484人が犠牲になった事件を今に伝えている。親たちは疎開させる子供を乗せた船が米軍に襲われる危険があると考え、心配したが、沖縄に留まれば米軍の攻撃を受ける危険もあり、苦しい決断をしなければならなかった。1944年8月22日、対馬丸は米軍の潜水艦ボーフィン号に鹿児島県の悪石島付近で撃沈された。沖縄を一緒に出航した5隻のうち襲撃されたのは対馬丸のみ。対馬丸 は老朽化(作られてからつけなかったことも一因だった。約10分で撃沈したため、ほとんどの人が船から逃げ出せず、海の底へと沈んでいった。子 供たちは、ぎゅうぎゅう詰めの状態だったので、沈んでいく船から逃げる事は難しかっただろう。いかだも粗末なものだったようだ。対馬丸撃沈は話してはならないと生存者らへ箝口令がだされた。それは疎開が進まなくなるのを防ぐためだった。展示されていた黒板には「標準語励行」と書かれていた。これは沖縄の方言を使ってはいけないというもの。方言を使うと、日本軍からスパイとみなされたという。対馬丸の犠牲は過去の話ではなく、今現在の戦争とも結びつくものだと捉え直す必要がある。【中村飛鳥】米軍による沖縄戦は1945年3月26日から始まった。その翌日から数日をかけ、沖縄県立第一中学(現在の県立首里高校)の生徒2年〜5年生に召集令状が手渡しで伝達された。28日には3年生以上およそ220人をもって、一中鉄血勤皇隊が編成され、沖縄守備軍の第5砲兵司令部に配属された。一方、2年生115人は、学徒通信兵として電信第36連隊の各中隊に配属された。4月1日には先生から学生に遺書(手紙、髪、爪)を書 くよう命令された。一中のある首里は、日本軍第32軍の司令部が置かれ、米軍の激しい砲撃の対象となった。本島中部で激戦が続いていた5月初め、一中鉄血勤皇隊は、鉄血勤皇隊本部、第5砲兵司令部、独立重砲隊第100大隊などに分散配属されることになり、部隊に向け出発する。しかし、首里は米軍に北、東、西の三方から包囲され、司令部を含む日本軍残存部隊は本島南端の喜屋武・摩文仁へと撤退、そこで撤退抗戦をはかることになった。そのため鉄血勤皇隊員の属する各部隊もさらに南へ向かった。そこで待っていたのは、避難住民も巻き込んだ〝地獄の戦場〟だった。年齢が若い人たちはガマの出入り口側で日々過ごした。外に出る回数が増え、危険な目に遭う頻度が高かった。鉄血勤皇隊の少年たちは戦争がなければ、好きな女の子に会うためにその子がいる場所に通ったりする普通の中学、高校生だった。自ら戦争に向かい散っていくことを良しとした学校での教育さえなかったら、生き延びられた人もいたかもしれないと思うとやるせない気持ちになる。【中村飛鳥】●ひめゆり平和祈念資料館●対馬丸記念館●一中学徒資料展示室真横にはウジがわいた友犠牲になった子どもたち出兵させられた青年たち30年)が進み、船団に追い15〜19歳の女子生徒14日夜に首里から南の各ひめゆり学徒の集合写真の前に並んだ同世代の特派員たち 「飯あげ」は1日2回、対馬丸記念館で取材する特派員たち戦戦争争のの記記憶憶私私たたちちがが伝伝ええるる
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