❺荒崎海岸=写真❻チビチリガマ、シムクガマ❼米軍嘉手納基地(道の駅かでな)❽佐喜眞美術館佐喜真美術館・沖縄戦の図(73)と久保田宏さん(82)縄本島南端に近い糸満市米須の公民館で、家族が1945年3月からの沖縄戦で犠牲になった大城弘明さんの話を聞いた。その後、地域に多く残る家族全員が戦死した「一家全滅の家」などを案内してもらった。元沖縄タイムスカメラマンだった大城さんは写真を示しながら、父方と母方の沖縄戦体験を語ってくれた。軍国少年だった15歳の3 沖 当 ❻❼❽❸❷❶❹❺ 父武弘さんは軍隊に志願し、長崎三菱兵器工場に配属されていた。その父方の一家は、「アブ」と呼ばれる入口が縦穴のように開いた自然洞穴に地域の人々と一緒に身を寄せていた。6月中旬、多くの日本兵がやってきて、軍が使うので出て行けと追い出され、古い墓に身を潜めるなどした。当時 9歳だった叔母タミ子さんは布団や生活用具を抱え4歳の弟を背負い、南の海岸へ逃げた。ある日、が子供たちのための食べ物を持ち帰った。それを見かけた日本兵4人が尋問したが、トミさんは沖縄の方言しか話せなかったので、「お前はスパイだ」とピストルや軍刀を 向けられ、軍靴で腹部を何度も蹴りつけられた。日本兵は食料を奪って去っていった。トミさんは体調を崩し、海岸一帯に逃れていた住民や兵隊 と一緒に捕虜になった。その後も体調は回復せず、た。その遺骨の判別ができ、数年後家族で収骨した。これは沖縄戦ではと ても珍しいことだという。母方の一家も、「アブ」に身を寄せたが、曽祖母の下痢が激しくなり、周囲に迷惑となるため自宅に掘った穴に葉っぱをか ぶせた避難壕に避難していた。飛行機からの機銃掃射のような音がして、弾は当時46歳だった祖母ウシさんの左目と鼻を削ぎ右腕を貫通、右側に座って いた当時19歳だった母スミさんの左胸に当たった。身動きができなくなったウシさん、避難を続けたスミさんはともに捕虜になり、収容所に運ばれ、生き延びた。スミさんは収容所へのトラックの振動で弾が動き激痛で気を失った。周囲で「スミはもたないね」と話しているのが聞こえたという。戦後、ウシさんはいつも付けている眼帯を外して証明写真を撮った。「こんなひどい顔、誰にも見せてないよ」と語り、残された右目が潤んでいたという。私には弾が体内に入るということは想像もつかず、考えるだけで怖くなる。本当の傷は見える傷ではなく心にある深い傷だと思う。遺骨さえも帰ってくることが難しい戦争の残酷 さに言葉を失った。なぜ殺されなければならなかったのか、なぜ命を大切にできないのか、と怒りを覚えた。栄養失調で亡くなる方も多く、食品ロスについても考えさせられた。食べたいのに食べられない人もいる。だからこそ食べ物は粗末にしてはいけないと改めて強く感じた。なにより「戦争は絶対にしてはいけない」。その言葉の重みと本当の意味を知った。【山口園子】時4歳6カ月だった久保田さん一家は、父清さんが防衛隊に召集されていたので、73 歳の祖父の判断で行動していた。6月に入ると艦砲射撃が激しくなり、一家は集落にある自然洞窟「アガリン壕」に避難した。しかし、すでに多くの人がおり、入り口近くの傾斜地で過ごすことになった。日中は艦砲射撃 の音、夜は照明弾の光が壕内に入ってきた。6月19日、一家に悲劇が起きる。当時31歳の身重の母エミさんが食料配達から帰ってくる時、壕の手前で銃弾に倒れ、性別もわからない胎児と共に即死した。同じ日、祖母も負傷した長女の見舞いに行った帰りに爆弾で吹き飛ばされ即死した。てきた父が、助かる見込みがないなら海辺に行って湧き水を飲んで死んだほうがいいと覚悟し、一家で海辺に移動した。おいしい水を飲んだ翌朝、隠れていた岩穴に米兵が現れ、捕虜となった。久保田さんは銃殺されると思っていたが、米兵は親切で優しかったという。この時、けがで歩けなかった祖父と付き添った 弟と別れたが、それが最後となった。一家がアガリン壕を出た翌日21日、日本兵数十人が壕にやってきた。米兵が出てこいと呼びかけたが、日本兵は抵抗、壕はガソリンが注がれ爆破された。日本兵のほか、集落の住民50家族159人も犠牲になった。久保田さんの話を聞いて、「戦争=だめなもの」と思っている若い世代の人に、戦争が起きたらど んな悲しいことが起こるかをしっかり知ってほしいと思った。そのために私たちは伝えていかなければいけないと感じた。【福永千夏】翌20日、負傷して帰っと23段。これは6月23日私たちは最終日の18 日、読谷村のチビチリガマ、シムクガマを訪れ、平和ガイドの眞謝夏希(まじゃ・なつき)さんに案内してもらった。ガマとは、沖縄にたくさんある自然洞窟のことで、沖縄戦では多くの住民の避難場所となった。佐喜眞美術館は館長の佐喜眞道夫さんが米軍普天間飛行場から土地を一部返還させて1994年に開館した。そのため基地の敷地に飛び出したように建っている。基地を望む屋上への階段は6段の沖縄慰霊の日にちなん だものだ。最も衝撃的だったのは4×8・5㍍の巨大な「沖縄戦の図」だった。丸木位里(まるき・いり)、丸木俊(とし)夫妻によって描かれた全14部の一つで、戦争の残酷さが1枚1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸したのは読谷から北谷にかけての西海岸だった。米兵は当時の沖縄の人口50万人を上回る怖くて仕方なかっただろう。全長約40㍍のチビチリに詰まっている。解説してくれた学芸員の上間かな恵さんによると、丸木夫妻は間違ったことを絶対に描いてはいけないと いう強い思いから、現地に足を運び、沖縄の太陽の下で沖縄の風を体感しつつ沖縄県民に話を聞きながら描いたという。戦争への恐怖心から精神が崩壊し目の焦点が合わず壊れていく人間。戦争の残酷さ悲惨さが絵からひしひしと伝わってきて、私は恐怖を感じた。最も特徴的だったのはほとんどの人に瞳が無かったことだ。しかし中央にガマには約140人、総延長約2500㍍のシム クガマには約1000人避難した住民のその後は、まったく違うものになった。チビチリガマでは、集団自決で83人の命が失われた。中国で戦争を経験した元兵士らが、「捕虜になったら女性は乱暴され分の娘や幼い子を手にかけるなどしていったという。一方、シムクガマで は、ハワイ移民だった住民が「米兵は乱暴するようなことはしない」と説得し、3人をのぞく住民全員が捕虜となり生き残ったという。集団自決は、今の私たちには考えられない。人間がこのようになる戦争は恐ろしくひどいものだいる生き残った3人の子供には瞳がある。自分の目で「見て」見極め、「知る」ことで想像力が働き、その想像力が次の戦争を起こさないようにできることを表しているという。また、絵には空白部分がある。それは誰も語れなかった苦しい背景があり、勝手に描けないという思いからできた空白だ。何を、なぜ語れないのか。私たちはこの沈黙の重みを考え想像すること。実際に「自分の目で見て知った」私たちが他者に伝えていくことこそが、本当の平和な世界を作るための第一歩だと私は考える。 【山口園子】と感じる。チビチリガマの悲劇が知られるようになったのてはいけないものとして扱われていたからだという。その後、犠牲者を悼み永久平和を願う「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」が造られた。破壊されるなどの問題も起きたが、再建された。そこには、沢山の人の平和への思いが込められているんだと思う。多くの命を奪った戦争。しかし、実際に戦争を体験した方たちは高齢化し、事実を伝えることが難しくなってきている。だから若い私たち高校生が、同じことを繰り返さないために、もっと深く知り、後世へ伝えていくべきだと私は思った。【阿部七碧】は38年後のことだ。触れ●佐喜眞美術館米軍上陸「一家全滅の家」伝える大城さん母・祖母犠牲、避難していた壕で集団死・久保田さん瞳の奥の未来❶対馬丸記念館❷南風原文化センター❸一中学徒資料展示室(養秀会館)❹米須「一家全滅の家」ひめゆり平和祈念資料館● チビチリガマとシムクガマるの住」民ながど避と難訴しえた、。親たがだ自、1日目2日目3日目39歳だった祖母トミさん10月1日に息を引き取っ54万8000人。住民は ■■■■■■■■■■■
元のページ ../index.html#3