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1945年の終戦から80年、大阪大空襲から80年。戦争を知る方は少なくなり、2025年を生きる私たちにとって歴史の出来事になりつつあります。80年前の大阪であったことをくり返さないために、過去を知り、みんなで平和を未来に紡いでいきましょう。
1944年から50回以上の空襲があった大阪。そのうち爆撃機B29が100機以上来襲した大空襲は8回もありました。1945年3月13日の深夜から未明にかけての大空襲では、B29により約270機、1,700トン以上もの焼夷弾(しょういだん)が投下され、大阪市街に甚大な被害をもたらしました。最後の空襲があったのは終戦前日の1945年8月14日でした。
大阪城は歴史ある城郭でありながら、明治以降は軍事拠点としての役割を担っていました。そのため、城内には今も軍事施設の跡が多く残ります。大阪城の東側一帯には、1870年に官営の兵器製造工場である「大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)」が建てられます。太平洋戦争中には「東洋一の兵器工場」と呼ばれていました。空襲では、その大阪砲兵工廠が標的となり、90%以上が焼失したとされます。
大阪砲兵工廠化学分析場
新兵器の開発や研究、化学試験などが行われていたそうですルートマップ⓯
「私の戦争体験」より
いずみ市民生協が毎年発行している「私の戦争体験」。これまでに数多くの組合員さんやそのご家族の体験を掲載してきました。
その中から大阪大空襲を経験した方のエピソードをご紹介します。
全文はリンクボタンから読めます。
現在の京橋駅で空襲にあった方のお話。
鶴橋まで逃げて防空壕へ避難。しかし、地上は火の海。同じ場所にいた男性に声をかけられ外へ。途中で火の中を進んでいく女性を見かけたそう。無事に布施にたどり着き、このときに出会った男性は命の恩人であり、今も感謝しているとつづります。
子どもの頃に大阪大空襲にあった方のお話。
空襲警報が鳴り、防空壕に入ったが、入口に火が見えたため、母親と一緒に急いで外へ。母の手を離さぬように無我夢中で握りしめ、火が怖いとかそんなことを思う間もないほど、必死に逃げました。叔母の家に避難した後、自分の家に戻ったが、すべて焼けてしまい瀬戸物は粉々に、ガラスは溶けて地面にくっついていたとか。
女学校時代に大阪大空襲にあった方のお話。
3月13日、火のついた円盤のようなものがあちこちから飛んできた。この空襲で担任の先生が行方不明に。先生を探す道中には体が半分焦げた人も...。川にはたくさんの遺体が流され、黒くなっていた。その中に先生を見つけ、大八車に乗せて、みんなで学校に運び弔ったそう。
国民学校3年生になる1945年3月13日に大阪大空襲にあった方のお話。
空襲から逃げ、妹を背負った母と母の友人の娘たちと御堂筋で待機していると、そごう百貨店の上部で破壊があり逃げてきた人で道路はいっぱいに。母たちとも離ればなれに...。戸惑いながらも「地下鉄で梅田へ向かえ」の声で中津国民学校まで避難します。そこで会った母の知人にお世話になったりして、やがて母たちとも再会できました。
最年少の学徒動員生徒として和泉市の軍需工場で働いた方のお話。
8月13日に17歳の兄が招集され大阪市内に帰宅。14日、見送って工場へ戻ろうとしたそのとき空襲警報が。目的地は近くの森ノ宮の兵器工場らしいのです。母と逃げる途中、50機以上のB29が頭上に。防空壕に逃げ込むと同時に1トン爆弾がさく裂。爆風で眼球が飛び出したり轟音で鼓膜が破れないよう、目と耳をふさぐことで必死だったと。数時間後に警報は解除されましたが、自宅横にはすり鉢状の大きな穴があき、家は柱が5~6本だけに...。終戦の十数時間前のことでした。
戦争の「記憶」と「記録」をまとめています。
体験や場所などで検索もできます。
ふだんは人気の観光スポットととしてにぎわう場所ですが、大阪城公園内や天守閣付近の石垣などには、今も戦争の爪痕が残されています。NPO法人 大阪観光ボランティアガイド協会の辻本昌彦さんと戦跡をめぐり、お話を聞きました。
南から北へ見て歩きました ©OVGC
戦争で怪我を負った人とその妻たちが、戦争の苦しさを忘れないでいてほしいという願いを込めてこの碑を建てました。過去の自分を責めて心を痛めた人も多くいるそう。戦争の残酷さを後世に伝えるものとして残ります。
陸軍の監獄があった場所。立て札の横には、反戦川柳を詠み治安維持法により逮捕された、鶴彬の川柳碑があります。言論の自由がない時代に詠んだ「暁(あかつき)をいだいて闇にゐる蕾(つぼみ)」とは。この場所で思いをめぐらせてみてください。
陸軍は、1945年1月ごろから、東内堀北側に石垣地下15mに、高さ・幅2m、長さ300mの巨大な地下壕を中部管区司令部(現ミライザ)と通じるように造成しました。また、南側にも第四師団司令部(現豊国神社)に通じる地下壕を造成し、空襲に備えました。
大阪のシンボルである大阪城天守閣。現在の姿は3代目です。落雷により焼失したものを市民などが寄付を集めて1931年に再建。過去の大戦中も破壊・焼失を免れました。
1931年、第四師団司令部庁舎が完成。1940年に同司令部は二ノ丸に移転します。終戦まで中部管区司令部として運用されていました。1945〜1948年、GHQによって接収され、その後は大阪市警察庁本部など大阪市の管理下に置かれていました。
当時の建物を残すべく、現在は多くの人が訪れる複合施設「ミライザ」として利用されています。
1945年8月14日、近くに1トン爆弾が投下され、天守閣の石垣が大きくずれました。前日には、アメリカ軍の飛行機から「この近くを空襲する」といった内容のビラがまかれたそうです。
陸軍の宿営施設だった山里丸は攻撃の標的とされ、石垣には機銃掃射の痕が残っています。
女子通信隊の宿舎があった山里丸にある碑。1945年6月の空襲で焼失しました。この「真心の碑」は1966年生存した女子防空通信隊の有志が建立しました。女子防空通信手は情報に関わる大切な任務を担っており、大阪城や砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の爆撃中も自分の職を全うしたと伝わります。
このあたり一帯が砲兵工廠(ほうへいこうしょう)でした。
大阪砲兵工廠門があった場所。堀にある門は、大阪城の東側に広がる砲兵工廠の搬入口でした。すぐそばにある化学分析場は、大阪砲兵工廠の数少ない遺構として当時の姿のまま残っています。写真はこちら
大阪観光ボランティアガイド協会では大阪城の戦跡を巡るツアーガイドをしています。
日本は戦後80年、一度も戦争をしていません。
戦争はどれほど怖いものか、残酷かを知っているからです。
戦争は語り継ぎ、若い世代へきちんと伝えていかなければと思っています。